トップページ>一番街周辺の名所
一番街商店街周辺には、明治維新に活躍した偉人に関連した歴史ある名所が数多くあります。
地図内の場所をクリックすると、詳細をご覧になれます。 ぜひどうぞご覧ください。
若き薩摩の群像
所在地:鹿児島市中央町
(鹿児島中央駅東口)
一番街商店街より徒歩1分
江戸時代後期、英国留学を果たし、日本の近代化の原動力となった薩摩藩英国留学生をモチーフとした『若き薩摩の群像』。高さは12.1mあります。
鹿児島の玄関口・鹿児島中央駅東口に1982年(昭和57年)、彫刻家の中村晋也氏によって制作されました。
1863年(文久3年)の薩英戦争で西洋文明の発達を見せつけられた薩摩藩は、1865年(慶応元年)、留学生15名・使節団4名を英国に派遣しました。
当時は幕府の鎖国令という国禁を犯した派遣だったため、甑島・大島出張という名目のもと全員名前を変えて命がけの英国留学。出発から2か月後、ロンドン大学で学びました。
帰国後は産業や外交などの分野で活躍し、近代日本を建設する大きな力となりました。
鹿児島の玄関口・鹿児島中央駅東口に1982年(昭和57年)、彫刻家の中村晋也氏によって制作されました。
1863年(文久3年)の薩英戦争で西洋文明の発達を見せつけられた薩摩藩は、1865年(慶応元年)、留学生15名・使節団4名を英国に派遣しました。
当時は幕府の鎖国令という国禁を犯した派遣だったため、甑島・大島出張という名目のもと全員名前を変えて命がけの英国留学。出発から2か月後、ロンドン大学で学びました。
帰国後は産業や外交などの分野で活躍し、近代日本を建設する大きな力となりました。
大久保利通像
所在地:鹿児島市西千石町
一番街商店街より徒歩5分
西郷隆盛とともに「明治維新の三傑」と称され、明治政府では参議、大蔵卿、内務卿などの要職に就いて次々と新しい政策に取り組み、日本の近代化に大きな業績を残した大久保利通。
鹿児島市の中心を流れる甲突川沿い(高見橋沿)にあるライオンズ公園の一角に大久保利通像と、政治に対する考えを示し座右の銘とされた「為政清明(いせいせいめい):政治をするには清く明らかであるべきで、隠し事があってはならない)」の碑があります。
中央駅東口前にある『若き薩摩の群像』の作者、彫刻家・中村晋也氏によって制作されました。
また銅像後ろ足元の台座には、暗殺時に一緒に命を落とした馬と御者(中村太郎)が小さく鎮座されています。
鹿児島市の中心を流れる甲突川沿い(高見橋沿)にあるライオンズ公園の一角に大久保利通像と、政治に対する考えを示し座右の銘とされた「為政清明(いせいせいめい):政治をするには清く明らかであるべきで、隠し事があってはならない)」の碑があります。
中央駅東口前にある『若き薩摩の群像』の作者、彫刻家・中村晋也氏によって制作されました。
また銅像後ろ足元の台座には、暗殺時に一緒に命を落とした馬と御者(中村太郎)が小さく鎮座されています。
大久保利通誕生の地
所在地:鹿児島市高麗町(こうらいちょう)
一番街商店街より徒歩7分
明治維新の三傑の一人・大久保利通は1830年、現在の鹿児島市高麗町(こうらいちょう)に薩摩藩士・大久保利世の長男として生まれました。
幼少時に鹿児島市加治屋町に移住し、西郷隆盛らとともに薩摩藩武士の教育(郷中)で学問を学びました。
幼少時に鹿児島市加治屋町に移住し、西郷隆盛らとともに薩摩藩武士の教育(郷中)で学問を学びました。
大久保利通生い立ちの地
所在地:鹿児島市加治屋町23-1
一番街商店街より徒歩6分
鹿児島市高麗町の誕生地から幼少時にこの地に移り住み、1863年(文久3年)鹿児島市新照院町に転居するまでを過ごしました。
この地で、3つ年上の西郷隆盛と薩摩武士の郷中教育のもと、兄弟以上の信頼で結ばれました。
すぐ近くには甲突川が流れ、明治24年に建設された仮国会議事堂の議場を模した円形階段デッキやバリアフリーのスロープ、薩摩暦、歴史ロードなどが整備され、地域の憩いの場となっています。
また碑の隣には明治・大正・昭和の政治や外交などに深く関わった、大久保利通二男で牧野家養子に入った牧野伸顕(のぶあき)の誕生地の碑もあります。
この地で、3つ年上の西郷隆盛と薩摩武士の郷中教育のもと、兄弟以上の信頼で結ばれました。
すぐ近くには甲突川が流れ、明治24年に建設された仮国会議事堂の議場を模した円形階段デッキやバリアフリーのスロープ、薩摩暦、歴史ロードなどが整備され、地域の憩いの場となっています。
また碑の隣には明治・大正・昭和の政治や外交などに深く関わった、大久保利通二男で牧野家養子に入った牧野伸顕(のぶあき)の誕生地の碑もあります。
西郷隆盛誕生の地
所在地:鹿児島市加治屋町
一番街商店街より徒歩7分
大久保利通とともに「明治維新の三傑」と称され、明治新政府では参議として廃藩置県などの改革を行い近代日本建設の土台づくりをした西郷隆盛。
1828年、現在の鹿児島市加治屋町に御勘定方小頭・西郷九郎隆盛の長男として誕生しました。
弟の明治政府重鎮・西郷従道は1843年に誕生し、ともに薩摩藩武士の教育・郷中教育で学びました。
記念碑左奥には東京都目黒区・西郷従道邸庭園跡地から寄贈された庭石があり、楠の大木にかこまれた屋敷跡地はそのまま公園として保存されています。
1828年、現在の鹿児島市加治屋町に御勘定方小頭・西郷九郎隆盛の長男として誕生しました。
弟の明治政府重鎮・西郷従道は1843年に誕生し、ともに薩摩藩武士の教育・郷中教育で学びました。
記念碑左奥には東京都目黒区・西郷従道邸庭園跡地から寄贈された庭石があり、楠の大木にかこまれた屋敷跡地はそのまま公園として保存されています。
共研公園(西郷隆盛宅地跡)
鹿児島市中央駅東口から徒歩5分に位置する「共研公園(きょうけんこうえん)」。
この公園は鹿児島市民の憩いの場としても、非常に愛されている公園です。
この一角にあるのが西郷隆盛宅地跡。この宅地には坂本龍馬も宿泊しました。
誕生地の加治屋町からこの場所に1855年(安政2年)の29歳から14年ほど住み、妻イトとの結婚、島津斉彬公に才能を認められ薩摩から日本へと活躍の場が広がりを見せる一方、安政の大獄で追われる身となった僧・月照と入水自殺を図るなど波乱万丈な時代を過ごしました。
所在地:鹿児島市
一番街商店街より徒歩5分
西郷公園(西郷屋敷跡)
西郷隆盛が朝鮮使節派遣に反対され鹿児島に帰ってから、1873年(明治6年)~1877年(明治10年)西南戦争が起こるまでの4年間暮らしていた西郷屋敷跡です。
ここでの暮らしは”武村の吉”と呼ばれるほど農耕に励み、狩猟や湯治を楽しむ晴耕雨読の生活をする一方、士族の青少年教育のため私学校を創設したり、屋敷に沖永良部島で知り合った川口雪篷を同居させ、近くの子弟教育を行いました。
現在は公園として保存されています。
公園内には『南洲翁遺訓』を発刊し、全国を行脚して頒布に努めたことでも知られる庄内藩家老の菅実秀(すげ・さねひで)と西郷隆盛が対話をしている坐像や、当時使われていた井戸がそのままの形で残されています。
所在地:鹿児島市武二丁目
一番街商店街より徒歩8分